攻殻機動隊と人間の脳について
1月19日
「ルート1の防壁甘い、外縁部のエリアが情報垂れ流している、これじゃ電賊にハックされるぞ」
朝目覚めて寝ぼけていることに気が付く。
しばらくの間現実とまどろみの区別がつかない。
改めて状況を検証し…
「いやいや、自分電脳化してませんから」
やっとのことで完全に覚醒。
………
寝る前に攻殻機動隊(コミック)を読んでから寝たら、寝ぼけている頭ん中で専門用語が飛び交い、電賊との戦闘が繰り広げられ、まったく熟睡した気分になれず、目覚めると身体にどっと疲れが…。
しかし人間の電脳化(補助的に機械を脳に組み込む)や完全機械化はなかなか興味がある分野ではあります。
昔よく考えたのは、自分の記憶をそっくりそのままコピーしたロボットを作ったとしたら、自分がもう一人誕生したことになるのかどうかということ。
肉体を持つオリジナルが死んだとしてもそのコピーは生き続ける。
果たしてそれがそのオリジナルの人生の延長といえるのだろうか?
まあ確かに、たとえば寝てるうちに脳のデーターを全てコピーしたコピー脳と入れ替えられても、入れ替わった側が自分の脳みそがコピーであるということを知覚することは不可能なわけで…当人にしてみたら人生は眠る前の記憶から一本につながっていると認識するわけですから、人生の延長線上に一応存在しているといえなくもないかもしれないわけで…。(ああ、わけがわからん)
ある科学者が「後50年もすれば人間の脳を完全に再現でき、それによって人間にとって死は重要なことではなくなる」といった類のことを言っていましたが、恐らく再現できたとしてもそれは始めの頃だけで、そのうち『人類保護法』とかできて法的に規制されて非合法のみでの適応に移行していってしまうでしょうね。(或いは本当に限られた一部の人間にのみにその技術が供与されるか、完全機械化する人間は一人身で子孫を残さないという条件をつけた場合なら多少長い期間やっていけないこともないかもしれませんけど…)
今すべての人間を機械にしてこれ以上人間が増えないというモデルで考えてみると、リサイクル率100パーセントにでもしない限り、メンテナンスに必要な部品等の資源枯渇を招いてしまい、結局は殺し合い(壊し合い?)の戦争かゆっくりとした自然消滅が起こり、結局絶滅してしまいます。(地球の外に出ない限り)
そう考えると超長期スパンでの種の保存においては今の生命体系の方が優れているのかな?
かなかな?
でちょっと話を前の脳の話に戻します。
気になるのは、脳の組織を部分部分、段階的に機械に置き換えていった場合どこまでが人間でどこからがコピー人間なのか、或いはどの時点が死かという問題です。
延髄や間脳とか中脳小脳とかは個人差があんまないんで取り替えてしまってもまだそれは『自分』だといえるんでしょうが、大脳系や自我をつかさどると言われる前頭前野を取り替えてしまったら、それは既に『自分』ではなくてコピーされた『物』になってしまうと考えられますから、その時点で個人としての生命は死んだともいえるでしょう。(生身の脳による生命維持機能が活動し、思考等の人間的能力が完全に機械化された状態など)
また、脳を全部摘出してしまえばそれは生物学的に完全に死んだことになります。
しかし、生物学的には死んでいても、脳が機械に置き換わり機能は正常に保たれているわけで、(機能停止を死だとすると)状態的にはそれはまだ生きており、当人は死んでいるのに未だに生きているというわけのわからない状態に陥ってしまいます。
また、この脳の部分的機械化をもっと細密化(ナノマシンなどで徐々に機械化)させた場合、その線引き(個人としての死がいつなのか?或いは自我の境界とは如何?)がもっと難しくなります。(できない?)
攻殻機動隊の作者士郎正宗はそういった疑問点を『ゴースト』という言葉で解決したんでしょう。
(霊体(ゴースト)があるとするとその霊体が肉体から離れた時点でそれは人間ではなく機械になる(つまり死ぬということ)、また機械には霊体が定着することがなく、人間という生命体固有のものであるという考え方…たぶん)
ややこしい…いずれ人間がそういった問題に直面する転換期が訪れるのでしょうが、これはなかなかに解決できない難題でしょうね。
いやはや生と死、人間とは全く複雑怪奇。
なんか話が大きくなりすぎてしまいましたが、たまにこういった疑問を考えてみるのも面白いもんです。
長文駄文失礼しました。
ではさらば。