どうも、私『八月一日 九』と申します。
ん? 名前をなんて読むのかわからない?
『はちがつついたち きゅう』です。
嘘です。『ほづみ いちじく』です。
大抵の奴らは名前を間違ったまま覚えていやがりますんで、あんまり覚えなくても結構です。イチジクでもキュウでもどちらでも構いません。お好きなようにお呼びください。
話がずれました……ああいや、そういえばまだ話を始めていませんでした。これからお話ししようとしてるのはちょっとおかしな話です。お菓子の話じゃありませんよ。おかしな話です。
具体的に説明すると、全国至る所に存在する神隠し、或いは異世界へ行き着く場所、方法なんかのお話です。荒唐無稽な話だけど妙に怖くて、妙に人を引きつける話。神話の黄泉平坂のように異世界へと繋がる伝承が残るものから、いまいちなんでそこが噂の舞台になるのか全く不明な場所ってのもあったりします。誰かが作り出したのか、或いは本当に存在するのか。
まあそんなお話。



八月一日九の迷い話


1,

島根県某所
大嫌いな数学の授業が終わって、机に突っ伏していると、私の耳に妙な噂が入ってきた。
「知ってる? あの城山にあるお稲荷さん」
「お稲荷さん? ああ、知ってるけど? それがどうかしたの?」
「夕暮れ時、一度拝んで右に一回、左に三回神社の周りを回った後、もう一度拝んで階段を下ると、別の世界に行っちゃうって噂話があるらしいんだけど……」
「へー、そんな話初めて聞いた」
別に私に向かって話されている会話でもないので、突っ伏したまま聞き耳を立てる。
聞きながら、高校生にもなったというのにまだそんなオカルト話が好きなのだなーと妙に感心した。男子にも若干名いるけど、やっぱりそういうのを信じるのは女子に多い気がする。純朴というか夢見がちというか。
城山にあるお稲荷さんは私も知っている。こぢんまりとした小さな神社だ。入り口にある何本かの鳥居をくぐって左に曲がった先、狛犬とか狐が建ち並ぶ先の階段を登ると小さな社殿があって、その周りに数え切れないほどの狐の像がならんでいる。まあでも、個人的にはそこまで変わった神社じゃないと思う。ああ、あとは小泉八雲がお気に入りだったとか聞いた覚えがあるけど……。まあとにかくそんな神社。確かに狐の像は多いし、静かだから、異世界に繋がる云々とかの噂話があったとしてもそんなに不思議でないような気はする。
けど、私は既にその噂話に対して醒めきっていた。
何故なら、今まで何度も何度もありとあらゆる異世界へ行く方法とやらを試してきて、一度たりともそこに行けたことがなかったからだ。結局、大半というか全て、それこそ女子高生みたいなのが勝手に自分の妄想を膨らませて作り出した嘘でしかなかった。
昔あった異世界への恐怖も今はどっかにいってしまい、今は僅かな侮りと蔑みが残っているだけ。
だから私は醒めてるし、興味が無い。
まあ、それはそうなのではあるけれど……。
私は不意に、そういった怖い話が異常に苦手な奴のことを思い出した。それこそ耳なし芳一の怪談で気絶するくらいの病的な臆病者が。それを騙して連れて行くのはおもしろそうだ。異世界には行けないだろうけど恐怖に怯える滑稽な様子は見ることができるかもしれない。それこそ今日早速そこに行ってみよう。たまの散歩もいいだろうし。
そんなことを考えて、私は意地の悪い笑みを浮かべてみたりした。


「九ちゃん、お待たせ」
小さな木造の橋のたもと、哀れなる生贄が息を切らしながら駆け寄ってきた。
「遅いぞ、ベリ子」
ベリ子と呼んだ生贄の本名は青柳=ベリー・青子。イギリス人とのハーフで、ヨークシャー生まれのロンドン育ち……は当人が見栄で言ってる嘘で、本当は鳥取生まれの鳥取育ち。背がそこそこ高くてすらっとしてて貧乳で髪が長くて綺麗で、見た目はキリッとしててとても優等生に見えるのだけど実際のとこはかなり抜けてるし、なんど見直しても色々と残念な人物なように思える。別に悪口ではなくて単純な感想として。
「九ちゃん、どうかした?」
「いや、何でもないよ。ところでベリ子。ちょっと散歩しない? ちょいとばかし寄りたいところがあるんだけど」
「ん、いいよ」
ニコニコと無垢な笑みで返事する。この顔が恐怖に歪むのが今から楽しみだ。
私は意地の悪い笑みを浮かべそうになるのをぐっと堪えて普通の笑みを返し、先導する形で城山の方へと足を向ける。


木造の橋を渡って坂を上り、城山へ向かう。城山は木々が生い茂り、暗い。それに加えて勿論のこととして城特有の怪談話なんかもあったりするから、夕暮れが過ぎればもっとおどろおどろしい感じになる。夜になると足を向ける気にもならない程だ。まだ流石に日があるからベリ子も怖がってないけど、このままここで夜を迎えれば失神するか失禁するかのどちらかになると思われる、たぶん。
そんなことを考えている内、目的の稲荷神社にはすぐにたどり着いた。
今の時期は日が短いせいか、ちょっと日が陰って、空は夕焼けになりかけ始めているようだった。
「あ、お稲荷さん。こんな所に神社なんてあったんだね」
「まあ、城山の奥だし、知らない奴は結構いるかもな」
「それで九ちゃん、ここに用事ってなんだったの?」
「あー……」
そういえばなんのためにきたのか適当な理由を考えてなかった。
ベリ子に視線を移すと、無垢な笑みが次第に消えかけているように感じた。次第に私に対して何か良からぬ気配を感じているようだ。まあそりゃそうだ。毎回毎回私が怖いことに巻き込むせいで、いい加減不信感が芽生えつつあるんだろう。というか私がいうのもなんだけど、もう少し疑え。
「えーと……ああそうだ。そういえばウチの学校もうすぐ中間テストでさ。それの願掛けでもしようかと思ってね」
「あ、そうなんだ。私のとこはまだちょっと先だよ、中間テスト」
無邪気に笑みを浮かべる。
ベリ子はその適当な話を簡単に信じたようだ……。
オレオレ詐欺とかに気をつけろよ。
「まあ数学とかが特にまずい感じでね。神様にでも頼らないとどうしようもない感じでさ」
喋りながら階段を登り、お賽銭箱の前までたどり着く。
勿論、テストの願掛けなんてどうでもよかったので『異世界へ行けますように』と適当に拝むことにした。ベリ子も何を拝んだのか知らないけど、似たようにして手を叩いて拝んだ。
「そういえば裏の方には狐の像が沢山あってね」
と、私は適当な理由をつけて、ベリ子を引き連れて一緒に社殿の周りをぐるぐる回ることにする。
えーと、右回りに一回で左回りに四回だったっけ?
そうして右回りに一回、左回りに二回回ったところで
「あの……九ちゃん? なんでこんなに同じ場所をくるくる回ってるの?」
流石に不審な様子に気づいたベリ子がたまらず声をかけた。
「あーいや、実は願掛けってのは嘘でなー……」
正直にことのあらましを説明する内、ふむふむと話を聞いていたベリ子の顔がだんだん青くなって、名前の通りに真っ青になった。
「ま、ま、ままた私を騙してそんな怖いことを。私が怖い話は絶対に駄目だと知ってるくせにー! もう九ちゃんなんて知らない!」
「まあまあ、そう怒るなよー。後二回回れば噂の儀式は終わりなんだから。どうせ嘘だって。あとこの手の噂話は途中で止めると酷いことになるってのが多かったりするから、どうせなら最後までやった方がいいと思うぞ?」
またそんな適当なことを言ったら、ベリ子はその場でプルプルと震えだし、今にも卒倒しそうになった。
流石にそこまでの反応をされると、少しばかり気が引けるというか、気の毒になった。
既にベリ子を驚かせる目的は達成したので、まあもう帰っても良いかなと思ったのだけど
「じゃ、じゃあちゃんと回らないと……でも、回ったら……ブツブツ……」
結局ベリ子に手を引かれる形でそこを回りきることになってしまった。
一応しょうがないので噂の通り、最後の締めとしてパンパンともう一度拝んでから、階段を下る。
「この階段を降りたら異世界に行っちゃって……」
一人ごとを呟きながら階段をぎこちない足取りで降りていくベリ子を呆れた思いで見下ろす。
「心配いらないって、恐がりだなー」
とでも言おうとしたのだけど、その時不意に辺りが暗いことに気がついて、思わずその言葉を飲み込んだ。
さっきまで夕暮れになりかけてた程度だったのに、今は日がほとんど沈んでしまったかのように暗い。空には不気味な赤い夕焼けが広がり、その場はすべてが固定されたかのように動きも無く、音も消えている。鳥の声も、木々が風に揺れる音も、なんの音もそこにはなく。ただ今はベリ子のぎこちない足音が不気味に響いているだけだ。
その期に至って、私はいい知れない不気味な感覚に襲われた。何か普通とは違うことが起ころうとしている。そんな気がする。
私はそこで初めてぶるっと身震いした。
階段の先を行くベリ子は怖がりすぎているせいか、この異変には気づいていない。私の手を取り、さっさとこの怖い儀式を終わらせてしまおうと急いでいるようだった。
階段を下りきって一本目の鳥居をくぐったその時。
不意に強い風が巻き起こった。
「わっ!」
目を開けることも出来ない。飛ばされてしまうと錯覚する程の風。しかもそれはまるで身体の一番奥底に直接吹き付けるように冷たく、冬の風のような風だった。
ビクリと二人の身体が大きく震えた。
風が一拭きで過ぎ去り、少し経った後、私は恐る恐る目を開ける。
赤すぎる夕焼けの中、辺りからは騒がしいほどのカラスの鳴き声が響いていた。まるで今までのことが夢だったかのように、世界が急に動き始める。
何かがおかしい。
いつもと変わらないように思えるけど、違う。いい知れない不気味な違和感を本能が感じている。世界の何かとても大切なものが崩れて、とんでもなく大きな異変が起きてしまったような恐怖。取り返しのつかない酷いことが起きてしまう。そんな予感。
「…………」
お互いに顔を見合わせる。
ベリ子は顔が真っ青というかもう死んでるのではないかと思うような顔色で私を見つめていた。非難しているというよりは救いを求めているような瞳。
私はその瞳に何も答えることができず、ただ逃げ出すようにベリ子の手を引き、城山から駆け下りた。
家へと帰る道の途中。一台の車も人間もどこにも見当たらず、辺りからはカラスの鳴き声以外は何も聞こえなかった。
世界は歪み、ぎこちなく動いている。
ただ神経が過敏になっているだけだ、と自分に何度も言い聞かせて足を速める。不安が足をどんどん速め、家に着く頃にはほとんど駆け足くらいになった。
結局、私達は誰とも出会わないままベリ子の家へまでたどり着いてしまった。
「着いたけど……九ちゃん。怖いから一緒に家の中に入ろ?」
ベリ子の言葉に頷き、私たちはそこに異変がないかを一緒に確認することに決めた。
それほどに辺りの様子は不気味だった。
古く大きな日本家屋。ベリ子は家の表門をくぐり、玄関の引き戸を開けて
「おかーさん……帰ったよ」
不安げに声を出す。
日本家屋独特の静かさ、暗さが玄関に充満し、ベリ子の声は闇の中へと消えていく。壁に立て掛けられた掛け時計の秒針だけが僅かに音を立てている。
じっと耳を澄ます。誰の気配も無く、秒針以外の音は何も聞こえない。
「…………」
頬を冷や汗が流れ落ちた。
その時突然、大きな掛け時計の鐘の音が響いた。
不気味な鐘の音。まるで凄まじい雷鳴が鳴り響いたかのように身が震え、私たちは思わず抱き合って大きな叫び声を上げた。
「ぎゃーー!」
その叫び声と同時、廊下の奥から和服を身にまとった、彫りの深く金髪のいかにも英国人のベリ子の母親が驚いた表情を浮かべながら現れ
「なんかいね? そんなおぞげな声出して」
酷い出雲弁訛りで私たちに声をかけた。
「あ、お母さん。なんともない? 別におかしなこととか……」
「なんもおかしげなことなんてないがねー。あらー、九ちゃん久しぶりだがねー。元気にしちょったかね?」
「あ、ども……特に変わらず元気です」
と、一度答えた後、ベリ子の耳に口を寄せて
「なんだ別にいつもと変わらないじゃないか。やっぱり気のせいだよ。気のせい」
「あ、うん。そうだと良いんだけど……」
取りあえずその日はそれで別れることになった。
私は自分の家に帰ってからテレビをつけ、一応、世界の確認をすることにする。
だが、別に特に変わった様子はない。
普段から目にするような他愛のないニュースや、よく知らない芸人がずらっとならんで大して面白くもない内輪話で笑いあっている。いつも通りの光景だ。
私はそれを見て、ほっとを胸を撫で下ろす。
「寝るかー……」
テストも近いし、訳のわからない恐怖で貴重な睡眠時間を取られるのは惜しい。
布団に入ると恐怖の反動からか、すぐに眠気が襲ってきた。
その日は、久しぶりにぐっすりと眠れた。




2,

次の日。
もしかすると学校には何か異変があるのでは? と、ちょっと不安になりつつ登校したのだけど、その心配は無いようだった。いつもと変わらない光景。別に生徒がエイリアンになっているとかも無いし、訳のわからない奇抜なファッションになっているとかもない。話してる内容もいつものとりとめのないくだらない話だ。
私はそれで安心して、一限目は嫌いな数学の授業だったなーなどと他のことを考えたりした。もうそれで昨日の出来事は記憶の中から追いやられそうになっていた。


教室に入ると、早速、昨日の噂話をしてた連中に一応の報告でもしてやろうと
「昨日の噂話だけど―」
そこまで喋りかけた途中で口が止まった。
「ん? 八月一日さん。昨日のがどうかした?」
「…………」
口が半開きのまま、視線が机の上に釘づけになる。
おかしい。
どう考えてもそこに不釣り合いなものが乗っている。あまりに不釣り合い過ぎるので、身体がその場で完全に硬直しきってしまった。
「ん? どうかした」
「あ、いや……なんでもない……」
なんとかそれだけ答えて、少し離れた所から教室の中の様子を観察する。
ただ一人の机の上だけにそれが乗っていたのなら、なにか特異な事例だと納得出来たかもしれない。だけど、その奇妙な物体は皆の机左前方に一つの例外もなく乗せられていた。偶然ではないだろうし、それをなんの為に使うのかなんてさっぱりわからない。
机の上には確かに大きな『シジミ』らしき物が乗っていた。
始め、それは烏貝かなにかと思ったけど、その形状からしてそれはシジミで間違いないようだった。手のひらサイズの巨大シジミ。本当に大きい……って問題はそこじゃない。
私は釈然としないながらも自分の席につく。
幸か不幸か私の机の上にはシジミは置かれていない。この際、気のせいだということにしてそのまま眠ってしまおうと思ったのだけど
「八月一日さん八月一日さん。早くシジミ出さないと先生が来るよ」
「…………」
周りの連中が妙に焦った様子で声をかけるので、眠るに眠れなくなった。
やっぱりあれはシジミなのか……。
一応、ガサゴソと鞄の中を調べてみるけど、当然のこととしてシジミは見つからない。
そもそもそんなのが入ってたら磯臭くてしょうがないじゃないか、だいたいシジミを一体なにに使うっていうんだ? 調理実習じゃあるまいし。
頭の中で文句を垂れつつ、汚い鞄の中を漁っていると、担任が教室の中に入ってきた。
起立の挨拶がかかり、仕方が無いので鞄をもったまま立ち上がる。
「何をしている? 八月一日。早くシジミを出しなさい」
担任はめざとくも私の机の上にシジミがないことに気づき、声をかけた。
出せと言われても無いものはどうしようもない。財布を持っていないのに強盗に金を要求されたようなものだ。理不尽すぎる。
「あ、すいません忘れました」
と、私は笑顔を振りまき、努めて明るく、軽く、答えた。
「わ、忘れた?」
教師の顔がさっと青ざめ、教室中の顔が一斉にこちらを向いた。皆、驚愕の表情を浮かべ。中には泣き出しそうな顔を浮かべてるのもいる。
「お、お前は……なんということを。お前は自分がどういうことをしているのかわかっているのか! な、なんということだ……。ホ、ホームルームが終わり次第、す、すぐに職員室に来なさい!」
それだけ叫んで担任はよろよろと卒倒しそうな様子で教室から出て行ってしまった。
その直後から辺りのクラスメイト達に「そんな馬鹿な! 嘘だろ!」だとか「信じられない」「私は八月一日さんを信じてる」なんて激励やら罵声やらをローテーションでかけられ続けた。
何故、たかがシジミ如きでここまで言われないといけないのかとムカムカと思いつつも
「とにかく私、職員室に行ってくるから」
それだけ言い捨てて、私はそそくさとその場から逃げ出すことにした。
勿論、職員室に行く気などさらさら無い。職員室と逆方向に向かって走って、学校の裏手から外に逃げ出し、そのままの足で木造橋の袂まで向かう。
駆けた先、案の定、ベリ子が鼻水と涙を垂れ流しながら立っていた。
「九ちゃん、シジミがシジミがー……」
私に駆け寄りながら、普段なら頭がおかしくなったこと間違い無しの台詞を吐き出し、抱きついてくる。
「大丈夫。意味がわかる」
トントンと背中を叩いてベリ子を落ち着かせた後、私達はその場から逃げるようにして駆けだす。
向かう先は勿論あの稲荷神社だ。


すぐに人気のない神社の裏まではたどりついたものの、問題はこれからどうするかということだった。こんなわけのわからない問題どうすればいいのかなんてさっぱりわからない。
「うーん……昨日のあれが原因でこんな訳のわからないことになったんだろ? それならもう一度同じことを繰り返せば……元に戻れるんじゃないか?」
「でも、もしかするともっと変な所に飛ばされちゃうかもしれないよ。今だとシジミ程度で済んでるけど……例えば服の無い世界とか……」
「それは……非常に困る」
腕組みし、うーんと悩む。
「シジミの世界で生きていくか、或いは元の世界に戻れる可能性にかけるか……この世界のシジミがなんのために存在するのかはわからないけど、シジミぐらいならどうにかなるような気がする。スーパーに売ってるだろうし……というかなんでシジミなんだろ?というかあれは本物のシジミなんだろうか? 或いはシジミ型の何か別の物体なんだろうか?そもそも、なんで授業にあんなのが必要なんだ?」
「あれが普通のシジミでも、シジミが常時必要な世界なんて嫌だよー」
「まあ、磯臭いしなぁ……」
そんなどうしようもない話を繰り返している時
「そこの二人!」
突然後ろから大声をかけられ、私達は思わず跳び上がった。
二人とも気絶しそうなほど驚いて振り向くと、そこに袖の長い巫女服を着た女が立っていた。というかその顔はまるっきりベリ子そのものだった。生き別れた双子と言われても余裕で信じるというか、クローンと言われても信じるほどにその顔はまるっきり同じ。ただ僅かな違いとして……若干、胸が大きい。あとは……頭の上になんか耳がある。なんか見慣れない獣耳みたいなのが。
「朝からずっと探しておったぞ。この阿呆共が」
と、笑いながらそのベリ子もどきは巫女服の内へと手を入れる。それが服の中から凶器を取り出すような動きに見えて
「ぎゃあーーー!」
思わずまたベリ子と抱き合って、叫び声を上げた。
「なんじゃ、まだなにもしとらんじゃろが」
まだってことは何かするつもりなのか! と思っている内、そのベリ子もどきは懐からお札のようなものを取り出した。
「お主ら、こっちの世界の住人ではないであろう?」
「な、何者?」
恐る恐る聞くとベリ子もどきはふふんと不敵に笑い。
「ワシはこの神社に住まう稲荷神じゃ」
「お稲荷さんの神様? ……でも、なんでベリ子とそっくりなんだ?」
「…………」
そこで初めてベリ子狐はベリ子の顔をのぞき込む。鏡を見ているみたいになった。
「何これ怖い」
「あ、別に化けてるからその顔ってわけじゃないのか」
しばらくベリ子狐が奇妙なものを見るようにベリ子をじろじろと見た後
「まあとにかくじゃ。迷い込こんだおっちょこちょいのお主らをワシが元の世界へ戻してやると言っておるのだ。ほれほれ、あんまりこっちに長居しておると他の者に連れ戻されてしまうぞ」
といってその訳のわからないお札をひょいと投げると、それが風に乗ってひらひらと空に上がっていって、辺りの風景がちょっと暗くなった。
「さあ、これで帰れるぞい。左回りに四回ここを回って降りれば元の世界じゃ。一周するとそれでもうワシはおらんくなるが、気にせずちゃんと四回回るがよい。戻ってきたりしちゃいかんぞ」
「は、はい」
二人一緒に答えた。
「じゃあの。多分もう会うことはないが、達者で暮らせよ。ワシのそっくりさんとそのお供」
「あ、ありがとうございます」「あ、どうも。誰がお供だ」
二人一緒に深々と頭を下げて、逃げるようにして社殿の周りを回り始めた。怖くてしょうがなかったから手をつないで回った。下手をするとこのまま離ればなれになってそのままもう二度と会えないような気がして、痛いくらいに手を握った。
一回回ったら確かにベリ子狐の姿は消えていた。
正直、もう心臓がドキドキだったのでそのことはもうどうでも良くなっていたけど。
二回、三回、四回。ちゃんと四回、絶対、きっかり、確実に回ってから階段を下りた。
鳥居をくぐるとまたあの嫌な感じの冷たい風が身体の中を駆け抜けた。
辺りはいつの間にか夕暮れに変わっていた。
その日はずっと震えっぱなしだった。




3、

次の日、私はいつもと変わらず学校へと向かった。
家族はいつも通りだったし、テレビも前の日のまま。あのシジミ世界に迷い込んだ日と同じ日付に戻ってきたらしい。だから別に私達が失踪したとかで騒ぎになっているなんてこともなかった。
通学風景もいつもと変わらなかったけど、私は早く元の世界に戻れたことを確認したくて教室へと駆けた。
眼をつむったまま恐る恐る教室の扉を開けて飛び込み、ゆっくりと眼を開ける。
ない。机の上にシジミがない。
やった! 元の世界に帰って来れたんだ!
私はその場で深々と安堵の息を吐き出して、よろよろと自分の席についた。
隣のクラスメイトに
「シジミとかいらないよね? 別に」
なんて聞いてみたら
「シジミ? シジミってあの貝の?」
なんて相当に怪訝な顔をされたので、適当になんか言い間違えをしたみたいに誤魔化した。
間違いない、やっと戻ってこれたんだ。
私はそのまま安堵して、机の上に突っ伏して寝た。


ホームルームもいつも通り問題なく終わって、一限目の数学の授業になった。
もうシジミを取り出すクラスメイトなんていない。授業も問題なく、いつも通り。
私は数学の授業は大嫌いだったけど、この日ばかりはこの数学の授業がとても愛おしく、嬉しく思えた。
こんな幸せはない。
生徒が方程式の問題を解いて、先生が「こんな問題もわからんのか」とペシペシと指し棒を振り回す。
いつも通りの光景だ。全てがいつも通り。
よかった……。あの神社のベリ子狐がベリ子みたいなおっちょこちょいじゃなくて。ベリ子狐は見た目はベリ子とそっくりだったけど、よくよく思い返せばしっかりしてそうな人だったし、ベリ子の十倍は信頼感があった。ベリ子とはまったく違う別の人種だったように思う。あれがベリ子みたいなおっちょこちょいな駄目な奴だったら私達は今頃大変なことになっていただろう。本当にありがとうございます。本当にありがとう。今度、稲荷寿司でもお供えにいきます。
私は心の中で一人感謝し、その場で小さく頭を下げた。
「次、八月一日」
数学の教師が私に当てる。
私は少しの不満も見せずに黒板の前にまでいって問題を眺めた。
うん、よくわかんない問題だ。よくわらないけど、今はこの数学の問題も愛おしい。
どうせ解けないだろうけど、今日はちょっと真剣に考えてみようかな。
そんなことを考えている私に向かい
「それじゃあ八月一日。これを使ってこの問題を解きなさい」
そう言って、その数学教師は指し棒ならぬゴボウを手渡したのだった。




                                             おわり


   


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